目的は何?

例えば、算数の指導法の校内研修をするとします。

指導法の研究ですから、どのように指導すれば効果的なのか、どのように指導すれば子どもが分かるようになるのか、また、どのように指導すれば、授業が成立するのか、などが議論されます。

授業の展開が定型化され、授業が安定して進むようになります。

その時に、

「授業が上手になりましたね」

という評価をいただきます。

私は

「確かに授業はできるようになったかもしれない。でも、肝心の子どもたちの理解は高まったのか」

「この授業を進めることで、いったい、どんな子どもを育てようとしているのか」

と考えてしまいます。

特に、2つの目の疑問が途絶えることがありません。

どんな子どもを育てようとしているのか。

私は、算数なら、せめて算数が好きになったという子どもが増えてほしいと思います。

授業が成立するようになっても、嫌いな子どもが増えたのなら、何の為の研究なのかと思ってしまうのです。

「静かに授業を聞く子どもを育てる」

なんて目標もありでしょうが、それではあまりにも目標が低すぎると思います。

『学び合い』の目的は、明確です。

どんな授業でも、目的がぶれることはありません。

「人格の完成を目指すこと」

具体的には

「様々な考えの人と折り合いを付けながら、課題を解決する力」

です。

指導論から、目標論・目的論に進むのかどうか、私は、どのような発言をしていけばいいのか、考えています。



卒業式の練習で

卒業式の練習を短く済ませたいと思います。

当然、普段の指導が大切だと思います。

私は、特に在校生の場合、

「卒業式の練習で大切なことは3つ。

①大きな声を出す②早くならない③じっとして座っている」

と言います。

今年は

「1回でできるように」

とお願いしました。

子どもたちも、1回でできるように、3つの指示を守って練習に取り組みました。

私は、子どもたちをほめて終わりにしました。

多少、不満があっても

「まだ練習かよ」

という雰囲気は最悪の展開です。

短い時間で終わりにして、ほめる。

教師になって、これほど練習時間の短い卒業式は初めてでした。

良かった。

2015.3.30



教師の賞味期限

私は、自分が教師としての賞味期限が終わったように感じることが多くなりました。
「こうすればもっとできる」
という話にほとんど興味を持てなくなっています。
それどころか、
「できるようになることにどんな意味があるのだろう」
と極めて懐疑的になっています。
「もしかしたら、私がここにいることが、子供の成長の邪魔になっているのではないか」
とも思っています。
子供たちが、それほどの事ではないにしても、自分たちで成し遂げたときに
「いいなあ」
と心から感じるのです。
「それをやったのは、私ではない。子供たちだ」
と思えると、本当に嬉しいのです。
ある指示で、子供たちが目標に向かって動きます。
ある指示で、子供たちが混乱します。
どちらでも、あまり変わりないようにすら、思えるのです。
6年生の担任なので、子供たちは勝手にいろいろなことをやります。
友達を傷つけたり、掃除をさぼったりしたときには、指導します。
その程度のことしか、教師はできないのではないか、とも思うのです。
何とか、子供たちが意欲的に取り組めるように、、様々な言葉がけや取り組みがなされます。
それを見ていると、言っている教師も子供たちも、痛々しく感じることもあります。
今の私は、子供たちの安全を確保して、あとは、できるだけ自由にさせておくことです。
ほとんど何もしていないのと同じです。
それでも、子供たちが、自分たちで何かしらを成し遂げていくのが一番ではないかと思います。

 

2017.10.29

 

 

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