『学び合い』を考える

この項目では『学び合い』に対するいろいろな意見や考えを綴ります。

『学び合い』のデメリット

あるところで

「『学び合い』のデメリットはありますか」

と質問を受けました。

「どんなことにもメリットとデメリットがあるでしょう。デメリットがないというのは返って信用されないんじゃないですか」

というご意見も合わせて伺いました。

私は、正直答えに詰まりました。

デメリットが浮かばないのです。

あまりにも、『学び合い』に染まりすぎたのかもしれません。

友達関係が良くなる。

成績もそこそこ。

けんかが減る。

子どもたちの自主性が高まる。

教師は子どもたちの様子がよくわかる。

「失敗したら恐ろしいことになる」

とは思いますが、そこまで行くのはなかなかありません。

「『学び合い』は考え方」です。

『学び合い』の授業を参観すると、実践している教師によって全く違う授業になります。

定型はありません。

一斉指導で有名な「酒井式描画法」も『学び合い』の授業として実践することもできます。

その方がいいと思います。

今まで、自分がやってきたことがすべて使えます。

法則化の授業も、『学び合い』で取り上げることができます。

今のところ、デメリットが浮かびません。

管理職からよく思われないということがあります。

仕方ありません。

デメリットと言えばこの程度です。

大学院で学ぶ時期

私は、大学を卒業してから20年以上小学校の教師として勤務してから大学院に進む機会を得た。

「西川研究室で『学び合い』を学ぶ」

という目的意識が明確だったこともあり、大学院の講義も生活も最高に楽しかった。

大学教授の何気ない一言から

「あのことだなあ」

と思い出すことも多かった。

現場を経験したもの同士の会話も楽しかった。

大学からストレートで、大学院に進むことも悪くない。

教育の世界なら、一度は現場を知ってから大学院に進むと世界が違って見える。

職場に大学院と現場を往復化するような立場の人間が常駐していたら、楽しいことになるのだろうなあと思う。

公務員改革の声、盛んな今、余分な人員を増やすことはできないだろうなあ、と感じている。

じゃ、勝手にやるしかないか。

 

指導すればできるのか

運動会の練習のこの時期。

練習をしていると、できない子どもたちに対して、教師の言葉が荒くなる。

「気合いを入れろ」

「無駄口をきくな」

「だらだらするな」

と怒鳴り合いの連鎖が起こってしまう。

「あきらめました。指導が入らない」

「いくら言っても、できないんです」

最後は、あきらめの言葉が続く。

子どもたちができないのは、指導が下手だから?

指導すれば、できるようになるわけ、って私は思ってしまう。

教えられても、できるものはできる。できないものはできない。

自分で、自分たちで、できるようになると思うようにしなければできるようにはならない。

そのためには、時間も必要だし、おしゃべりも必要だ。

「どうやればできるの?」

という会話が子どもたちの間で飛び交うようになれば、できるようになる。

子どもたちができるようになる情報は、子どもたちの中にある。

それを教師が替わることはできない。

 

私は、子どもたちを励まし、応援する。

練習で集団を怒鳴るような無意味なことはしない。

指導が足りないとは思わない。

子どもたちには、子どもたちの事情もある。

ただ、みんなができるようになることを祈る。

 

怒鳴りの連鎖

運動会の練習や卒業式の練習で、時々起こる。

「怒鳴りの連鎖」である。

気がつかないうちに、怒鳴りの連鎖に巻き込まれる。

その場にいるA先生が何かで怒鳴る。

次にB先生が何かで怒鳴る。

次にC先生が怒鳴る。

すると、その場にいる冷静な私も、なにかしら怒鳴って怒らないといけないような感じがしてくる。

そんなことを感じていると、隣にいたD先生が怒鳴る。

ますます、私は困る。

怒鳴りの連鎖が始まる。

最低最悪の練習になる。

子どもたちは、嫌々ながら練習をしている。

教師は

「全く、何を聞いているのだろうね」

と言い合う。

そんなときでも、怒鳴らずにいるには、相当な覚悟がいる。

職員室に戻ったら、

「なぜ、怒鳴らないのだ」

と逆に怒鳴られてしまう可能性もある。

「統一歩調がとれてないじゃない」

と言われるかもしれない。

私のようなおじさんにそのような言葉をかける先生はいないけど、経験の浅い先生は、もっと居心地の悪い感じがしているのかもしれない。

若者たちの「怒鳴りの連鎖」が始まったら、おじさんは静かに

「まあまあ、そんなに熱くならないで」

という役割を演じなければならない。

校長が怒鳴ったときには、もう為す術はありません。

迂回する方法

気になる子どもを注意しても、また同じことを繰り返します。

「あの子は通じない」

「聞いてないから」

と言う話になります。

私も、そういうふうに言うことがあります。

例えば、整理整頓ができなくて、机の周りが散らかっている子どもにどのように声をかけたらいいか、という問題です。

「君の周りは散らかっているね。片付けなさい」

とりあえずは片付けますが、またすぐに散らかります。

すねと、教師の声は前よりもずっと大きくなって

「片付けてください」

「片付けろ、って言っているんです」

「片付けろ」

とどんどん激しくなります。

“毅然とした態度”で指導することになりますが、いっこうに効果はありません。

ばかばかしい話です。

そこで、迂回する方法をとります。

まず、散らかっている子どもの友達を呼んで

「あの子の机の周りを片付けるのを手伝ってやってほしいのだけど」

とお願いします。

「先生が片付けろって、言っているから」

と声をかけて、片付けを手伝います。

この方がお互いにずっと精神的に良いことがわかります。

迂回するのです。

その子の片付けがある日飛躍的に向上するなんてことはとりあえずあきらめて、迂回する方法を繰り返し、いつの日か少しずつ良くなっていくことを待っています。

 

次の山へ

長い夏休みがあけて、2学期が始まる。

2学期が始まると、運動会に向けて学校全体が動き出す。

「夏休みボケ」をしている間になく、運動会の練習に巻き込まれていく。

この時期、学級の問題が顕在化することは少ない。

とりあえずの目標が学校全体、学級全体を動かしている。

6年生の担任なら、運動会の次は修学旅行。

子どもたちの期待は最高に達している。

修学旅行までは、それでクラスは動く。

さて、問題はその次である。

日々の『学び合い』はきっちり進めなくてはならない。

その上で、子どもたちが何かわくわくするような目標がほしい。

でも、これがなかなか難しい。

目標への合意ができないまま、クラスが何となく動き出してしまう。

気がつけば、子どもたちがばらばらな方向を向いて歩き出してしまう。とんでもない方向へ進んでいる子どもも出るかもしれない。

子どもたちとの間にどのような目標設定をして、どのように合意を作っていくのか、地道な毎日が続く。

『学び合い』の限界2

『学び合い』の限界について考えている。

もしかしたら、これは限界なのではないか、と思うことがある。

国語である。

いわゆる「行間を読む」という作業は、もしかしたら『学び合い』では到達できない部分なのかもしれないと思っている。

「川とノリオ」のテストで

「繰り返し出てくる川は何を表しているか」

という発問があった。

この問いに正解できた子どもはわずかだった。

答えは

「ノリオの生活は変化していくけど、川は変わらずに流れている」

というものだった。

そんなことは文章には出てこない。

解釈の問題である。

題名から考えれば、川が表象していることはわかりやすいが、子どもたちにはそれを問う力がなかった。

この問題を取り上げて、

「次のテストには、このような問題が出るかもしれないですよ」

と言うと、子どもたちは進んで解釈の問題に進むのかもしれないし、解釈の本を持ち込むのかもしれない。

『限界』かどうか、まだはっきりしない。

今回の「川とノリオ」の私の授業の中では、子どもたちはそこまで到達しなかった。

おもしろいテーマだと思う。

 

 

2011年度総括1

2011年度、6年生の担任として過ごした。

教師になって28年目。途中担任をしていない年が1年間、研修が2年間と、担任をしていない年度が3回あるので、25回の担任で8回の6年生の担任である。

私くらいの年の先生には、よくある経歴である。私の学校には、

「担任の3分の1以上が6年生」

という方もいらっしゃる。

この手の先生が3人いれば、3人で交代で6年生の担任をすることになる。恐ろしいことであるが、実際はそうなっていることがある。

今年度、私は

「6年生は今年が最後」

とあちこちで放言してきた。

年齢的に最後にしたい気がする。

ときどき、子どもたちの現状に我慢ができなくなることがあった。

しかりつけたこともある。

それでも、子どもたちは、今までの担任よりは怒らないという感じだったらしい。

「先生が怖いから」

という理由をよけたかったが、子どもたちはこれには同意をしなかった。

「教師が怖いという理由づけで動いた方が楽だ」

と感じていたらしい。

これには、私が同意できない。

この部分の同意は、最後まで成立しなかった。

残念であるが、仕方がない。

もっと若い頃なら、こんな同意などと言うめんどくさいことはやらないで、自分の信念で走っていったに違いない。

子どもたちからの声を聞くと、こういう同意を作る作業は案外良かったらしい。

4月から何年の担任をするにしても、またしつこく同意と合意を作っていく作業をしていくことになる。時間がかかるかもしれないが、これ以外にはない。

今は静かにその時を待っている。

1年間で一番フラットな時間である。

国語の陶冶価値について

「『学び合い』に向かない教科はありますか」

という質問がありました。

「向かない教科」はないと思います。

ただ、最近、算数がつまらないと感じています。

答えが一つですから、結局、収束するところは同じです。

それを言っちゃおしまいかもしれませんが、算数の広がりは小さい。

「多様な考えを大切に」

と言うけれど、答えが違うのでは話になりません。

私が、一番おもしろいと思っているのは、国語です。

国語の『学び合い』はどうしますか」

と言われます。

国語が一番おもしろいですよ」

と私は最近は答えます。

国語は、自分たちで答えを作り出すことができます。

算数に比べれば、ずっと広い範囲で答えを作り出すことができます。

物語にせよ、説明文にせよ、自分たちで問題を作り、答えを作っていくことが可能です。

明らかな間違いはあります。正しい漢字で書かなければ駄目です。

それでも、国語は、自分たちで答えを出すことが許される範囲が広い。

ここまで、書いてきて、国語の陶冶価値は、

「自分たちで答えを作り出すことができる」

かもしれないと感じています。

だから、国語のテストづくりをやらせると、とても楽しい展開になります。

自分が大学院に行っているときに、どうしても国語の『学び合い』がうまく行かなかったのは、予めある答えに子どもたちをどのように導くか、と発想していたためではないかと今日になって思います。文学教材であれば、その教材の解釈にどのように導くかと考えていました。その解釈に至らなければ駄目であると自分が思っていたことが原因のような気がします。

今は、どのような文学教材であれ、子どもたちがどのような答えを作っていくのかと自分が考えているから、『学び合い』ができるように感じているのだと思います。

 

2012年6月15日、妙高市からの授業参観後の話し合いで感じたことを、プログにアップし、ここに再録します。

学力向上という目標を共有化できるか

世は“学力向上”の大合唱です。

もともと学力向上を願わない学校は存在しようがないので、この大合唱にはいささか辟易しています。

学力向上が子どもたちの幸福にどのようにつながるのかなんて、全く関係なく進んでいます。

平均点が、95点でも97点でも、あまり意味がないように感じますが、学力向上に躍起になっている方からすると、この2点の違いは大きいらしいです。

例えば、全国学習状況調査の各校の結果は、教育委員会や各校には知らされます。

個人のデータも知らされます。

でも、そのデータを取り上げて、

「この学校の平均は、○○点で、県内では大体◎位くらいです。」

というような点数の公表にはかなりの縛りがあります。

「点数を公表すると、過剰な競争意識をうむ可能性がある」

ということなのだそうです。

公表しなくても、学校現場は、すでにそのようになっています。

「何としても、平均点を上げよ」

という圧力を感じることすらあります。

子どもたちに学力をつけたいと教師が願うのは当然です。

何としても、平均点を上げたいと教師も思うので、当然、きつい縛りになります。

「平均点100点は当たり前ですから」

と管理職から言われた方を知っています。

私は、この点数を公表して、子どもたちと目標を共有化することはできるのかと考えます。

「実は、君たちの結果はここに問題がある。

 この問題を解決するために、こういう努力をしてほしい」

と子どもたちと教師が同じ目標に向かって取り組む可能性です。

もし、それができれば、大きな成果を上げるに違いありません。

それが、学校間の競走を煽るだけになれば、子どもたちから

「その点数を上げることが、私たちの人生をどのような関わりがありますか」

という問いを生むことになり、成果を上げることはできないだろうと思います。

データを公開して、子どもたちと目標設定についての合意を作り、目標に向かって協調して取り組む何てことができれば、素晴らしい成果を生むことになると思います。

 

個人差をどう考えるか?

2014.6.6のブログにも書きました。

個人差を学級の課題に考える教師は少なくありません。

「説明を聞いて分かる子どもと、分からない子ども」

「A小学校から入学する子どもとB小学校から入学する子どもの差が大きい」

「入学前にすでに差がついている」

などなど、挙げればきりがありません。

この発言の前提には

「子どもたちが差が小さい方が指導がしやすい」

「子どもたちの差が小さければ、一つの声明で済むのに」

という教師の切ない願いがあるのだと思います。

入学してくる子どもを選抜して、ある程度の均等性を確保するとしても、いずれまた子どもたちの多様性が浮かび上がってきます。

私が通っていた高校も、「偏差値」という物差しで測れば、一応の「均等性」が確保されていたはずです。ところが中では、その「偏差値」では測れない個人の好みや得意不得意が混在していて、実に多様な人間がいました。当時は、文系理系の区別なく、同じクラスは、医者を志望する同級生と、弁護士を希望する同級生がいました。

そんな生徒たちの実態に臆することなく、先生たちは実に不思議で愉快な授業を用意してくれいてました。同時に、その愉快な同級生がいたので、数学でも物理でも英語でも、誰に聞けば分かるかと、分かっていました。どの分野でも、得意な同級生がいたわけです。

一斉授業という前提で、全員が分かるようになるという展開を考えている限り、この教師の「切ない願い」から逃れることはありませんし、その願いが達成されることもないでしよう。

そもそも、「一斉授業」という前提を疑うこと。もっと多様な学びを保障すること。

『学び合い』で言われている「教師は最善の教え手手ではない」という出発点を大切にすること。個人差を大切にしつつ、全員ができるようになるのは、そもそもの前提を変えなくてはならないと私は、思っています。

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