『学び合い』の特徴は、極限までそぎ落とすことにあると、私は思っている。
技術を重ねていくのではなく、
「これは必要なのか」
「これをとっても良いのではないか」
と考える。
いずれ、学習カードもなくなるだろう。
今やっていることの先に何があるのか、しっかりと見極めたいと思っている。
定期的、計画的に異学年学習や異学年交流をしようとすると、学校全体のしがらみもあって、なかなかに難しい。
例えば、国語の「パンフレットづくり」なんていう単元では、
「1年生が使えるようなパンフレットを作ろう」
と目標を設定して、実際に1年生に使ってもらうなんてことを計画する。
不定期で、思いつきでやっているような顔をしていて、実は隙あらばと狙うのだ。
話しやすい、この人なら応じてくれそうだという同僚を見つけておいて
「こういうことをお願いしたいのだけど、どうだろう」
と持ちかける。その時点で
「だめ」
と言われないことを承知していて、それでいて、したたかにやることだ。
様々な不定期の交流ができることがわかってきた。
総合的な学習の発表だって、クラスでやるよりは、ずっと楽しくなる。
2年生のかけ算九九の学習を6年生がテストするなんてこともできるだろうし、算数でもできるのではないかと思っている。
2年間の教務主任を経て、担任に復帰します。
自分の中では、6年生の担任だった自分が3年生の担任になる程度の意識です。
長い担任生活の性なのか、
「始まったら、あれをやろう」
「これもやりたいなあ」
と思うことが次々と浮かんできます。
そして、
「『学び合い』であれをやったら、面白いかも」
何てことも、次々と浮かんできます。
生来、計画倒れの私なので、どこまでできるのか、できないのか、分かりません。
多くは計画倒れで終わるでしょうが、結構楽しみです。
始業式の後、教室に入っての20分間で、どの程度まで目標設定ができるのか、ここにかかっています。
楽しみです。
2015.4.1
大学院を修了したとき、
「新しい流れが来るまで5年かかる」
と言い合いました。
5年ほどで『学び合い』はかなり認知されるようになりました。
さらに5年が経過して、私の勤務地では様々な事情から、一斉指導だけの研究会から脱しようとしています。
この新しい動きは、どこまで進むのでしょうか。
昨日の算数の校内研修では、この新しい流れをはっきりと感じていました。
この気持ちをここに記録します。
算数の授業を公開しました。
町内の授業研究会です。
テーマは学力向上。
学力向上ではない授業研究会があるかどうかわかりませんが、屋上屋を重ねる気がしていて、あまり好きではありません。
さて、指導者は算数の専門家です。
この指導者とは、5年の付き合いになります。以前
「自力解決はどうしても必要か」
という問いに対して、
「テストのときは一人で問題を解くので、どうしても必要」
と言っていました。
同じ質問を去年したときには
「自力解決の時間は、個別指導の時間です」
と言っていました。
今年は
「これからの時代を考えると、集団で考えるという時間は大切なのかもしれない」
と言っていました。
「自力解決」の時間は、いつも必要というわけではないのです。
私の授業は見る人が見れば明らかな『学び合い』の授業です。
教師は、本当に何もしません。
授業後の研究会で
「もう少し手立てがあったのではないか」
という意見が出ました。
それでも、学び合いに対する肯定的な意見の方がずっと多かったのです。多くの教師の目線が、学び合いに向いています。
いよいよ楽しい時代に入ってきたように感じています。